常識という判断基準はどのようにつくられるのか

それは常識だと捉えた瞬間に思考停止し、生きづらい世の中にになっていく。

以下(リンク
そのなかでも私たちが日ごろから当たり前と思っている「常識」という要素は、自分や周りの観点の固定から自由になるためには明確にしておきたい要素です。日本人の潜在意識にありながら曖昧な常識は、どのようにしてつくられているのでしょうか。

まず、はじめに人間は自分が認識した存在に名前をつけ、その用途、機能、目的、意味を規定しています(存在論・認識論)。そして存在AとBを比較してから、自分との関係性で価値を決めます。

 もしコップであれば、飲み物を入れる器ととらえ、ワイングラスとコーヒーカップ比較して、ワイングラスは1200円、コーヒーカップは800円などと価値を規定していきます。

 やがて、「バカラのワイングラスは高級なワインを飲むときに使うもの」「湯呑にコーヒーを入れてお客様の前に出すべきではない」「ワイングラスにカレーを盛るなんて、とてもじゃないけど信じられない」といった「××だったら〇〇すべき」という因果論を展開するようになります。これが常識のベースとなります。

 この「~して当然」という常識がさらに強化されると、それはやがて法律や道徳・秩序となり、その約束を破ると冷たい目で見られる、罰金を科せられるなど、より強い判断基準となって人生に影響を与えるようになります。

 この〇×判断基準の最終進化系である法律や条例、罰則は毎年のように増え続け、ほとんど減ることがありません。企業でも、「残業を月50時間以上はしてはいけない」「自宅にパソコンを持って帰ってはいけない」といったルールが増える一方です。

 この「判断基準のピラミッド」は、より多くの人がその規定や約束、因果論を支持することで上の階層へと進化します。

 今ではストーカー規制法がありますが、最初にその名前がメディアなどで報道、認知され、やがて「ストーカーはすべき行為でない」というお約束が世間の常識となり、支持を集めだしてからは「ひどいストーカー行為をする人を規制し、罰すべきだ」という因果論が正当化され、やがて法案になりました。

 このように常識が生まれる背景を理解することは、自分と相手の潜在意識を見る際にカギとなります。生まれ育った時代と国などによって、個人の常識がつくられます。「当たり前」だと思い込んでいた「常識」も、決して絶対ではないのです。

 そして「当たり前」や「常識」が変化を起こすと、私たちの実生活にも大きく影響を与えています。具体的な事例を通して解説しましょう。

 たとえば、女性の社会進出。我が国は先進諸国と比べるとまだまだですが総合職や管理職につく女性の割合は増加傾向にあります。

 逆に昭和、バブル崩壊前の日本の社会常識としては「女性は家庭を守る」ことが求められていました。結婚すれば寿退社、あるいは出産したら退職を選択していた女性が多かったのです。
 
さて、ではなぜ「女性は家庭を守るべき」という因果論になったのでしょうか?原始の時代を思い浮かべてください。食料は狩りを行ってでないと獲得することができないとします。身重な妊婦さんに狩りはできませんよね?そうなると自然に「男性は外で獲物をとってくる」「女性は家庭、子どもを守る」という役割分担が進みます。農耕社会であっても同様、身重な女性に重労働を強いるとこはできません。そのような背景から整理すると

① 「男性は外で収入を作り、家に届ける」「女性は子どもを育て、家を守る」(約束体系)
② 「男性は家事・育児を担うべきでない」「女性は結婚したら退社すべき」(因果論)
③ 「夫を支え、家庭を守る女性」を〇とし、内助の功を美徳とする(道徳、倫理、秩序)

以上のようになります。①が支持され、強化されると②となり、③が最終形態とでもいうべき状態です。その結果、会社や社会において男性優先、総合職採用においても男性しかいない、というような状況になっていきました。

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愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

リンクより

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉だが、ドイツの宰相であったオットー・ビスマルクの言葉だそうだ。

しかしながらよく聞く言葉である。この言葉を知っているだけで賢者にでもなったような口振りの人も見たことがある。

さて、 愚者は経験に学ぶというが、賢者も元々は 経験に学んでいたのだろうと思う。僕個人の考えとしては、歴史に学ぶということは、「歴史を知り、まるで自分のことのように受け止めて考えることができる」ということである(一般的な使い方は単純に「昔あったことから学ぶ」という文字通り的な意味なのかもしれないし、それはそれで大事である)。

以下は、上記の意味で「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」を使う。

そもそも学ぶということは、知識を覚えるという意味ではなく、腑に落ちて理解することだと思う。咀嚼して自分のものにする、自身の中で体系化する、色々言い方はある。

例えるなら、リンゴをいくつか食べて、リンゴに共通する本質を理解することのようである。「これは以前リンゴだとして食べた物より1cm大きいからリンゴではない」とするのではなく、リンゴに共通する本質をもってして「これもリンゴである」と分かるようになることである。言い換えるならば、自分の中にリンゴ観、リンゴのイメージが根付くことである。

愚者が経験に学ぶと言うのは、こうした感覚的・直感的に理解するために、手を動かさなければいけないことを言う。数・量をこなして体験してようやく自分のものとなる、そういうことである。

一方賢者が歴史に学ぶと言うのは、他者の経験をもって自分のことのように感じ、考えることが出来ることである。例えば、「レモンの爽やかな酸味が口に広がる」と言われたときに、食べてもいないレモンの味が再現されることがある。自分が今経験していないことでも、自分のことのように受けとることができる。ただしこの言い方だと、前もって経験していなければいけないということになるが、そうではない。

レモンの味を知っていれば、グレープフルーツやオレンジを食べたことがなくても、なんとなく予想が着く。自身の経験との共通点を見いだして応用することが出来るからである。

お金の計算などが「数」という抽象的な概念になり、他に応用されるように、賢者は一つの経験を抽象化して学んでいるのだろうと思う。

そういう意味で言うと、大抵の人が出来ている。しかし、それを様々なもので行える人は少ない。賢者と愚者の差は、数学を学んで数学しか学ばない人と、数学以外を学ぶことが出来る人の差である。




匿名希望

「なにを提供するか」より「なにを一緒に作っていくか」社員と顧客の関係性でみる“楽しく働く”ための視点

リンク

前略)

松下:では口火を切らしていただきます。僕は2018年、ドイツのベルリンに1年間滞在をしたんですけど、そこですごく感じたことは、顧客も社員ということ。目の前の顧客はどこかの社員であり、自分は社員だけど、どこかの顧客だという。

だからクリスマスや年末に店が閉まっていても、「しょうがないか、自分もそうだもんな」みたいな。その感覚ってけっこう大事なんじゃないかなという気がしていて。だからあまりにも「顧客を目の前にして」と考えすぎない。

一言で言うと「お互いさま」ということです、人生100年時代で、ずっとみんなが働き続ける想定をしていく時代。副業も広がっていく時代であれば、やっぱりお互いに働き方に関しては「お互いさま」の関係を築いたり寛容になるということが、ワークスタイリングで重要なポイントになってくると思っています。

■顧客とサービス提供者の境界線が溶けてきている
田中聡氏(以下、田中):「顧客」という概念が、もっというと、「顧客」と「サービスを提供する側」の境界線がどんどん溶けてきているなと感じるんですよね。以前のように、顧客が答えを知っているとか、明確な問いを持ってオーダーをしているケースって、ほとんどなくなってきているような気がしていて。

成し遂げたい大きなものはあるんだけど、それがまだふわっとしいてて言語化されてない。だから一緒に考えてくれませんかと。一緒にそのお客さんの持っている夢とか目的を達成していくために、パートナーになってやってくれませんかという関係性に、最近のサービスって近づいてきている気がするんですよね。

要するに、「顧客に何を提供するのか」というよりは、「顧客と一緒に作っていく、関わっていく」みたいなものが、チームワークという視点からみると大事になってくるのかなって思ったりしますけどもね。

司会者:上田先生はいかがですか。

上田:『プレイフル・シンキング』の本の中にも書いたんですけれども、「バイピープルデザイン」。つまりすべて、顧客も一緒になって考えるという。

例えば、僕は今建築プロジェクトのためのワークショップをさせていただいているんですけども、このワークショップは、顧客の方、つまり施主ですね。施主と建築家が一丸となってどうやって新しいものを作っていこうかと考えるのです。

今までは、例えば施主の方から設計与件が出ていて、この与件を満たすために、「こんな感じでどうですか」って建築家が模型を見せながら提案をして、施主はそれを「じゃあここはこういうふうに変えましょう」と作り直していく感じだったんですけど。

今、その与件といいますか、実は施主自身がなにを作りたいかが、はっきりわからないということが多い。だからそれを一緒になってジェネレイトしていくというワークショップをやっているんです。続きを読む
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