高齢者の雇用を巡る年齢制限についての見解を簡単に述べておきたい。

 高齢者にも社会的役割を与えるべきというのが私の基本的立場だ。それは必ずしも狭い意味の労働には限らない。例えば過去の人生経験を生かした教育者=語り部的な役割であっても良いし、農的仕事であってもいい。人生80年の時代個人から見ても社会から見ても高齢者の活用は希求の問題である。したがって高齢者の働く場が制限されていること自体は大いに問題であると思う。
 
 それをどの様に実現していくかは大きなテーマだが、そのためにもそれを阻害する原因を押さえておくことは取りあえず必要であろう。
 まず憲法では職業選択の自由が謳われている。しかし憲法で謳われた職業選択の自由は、職業選択の”可能性”の自由であって、その職の就業への保証ではない。だから現在は「選択可能性」という意味での自由は概ね既に実現している。しかし失業率の増大や高齢者の働く場が無いことに見られるように「就業の自由」さえ実際には成立していない。
 
 その要因は様々存在するが、直接的かつ基本な要因として上げられるのは、雇用関係において、個人主義の土台となっている「私的契約の自由」の大原則が存在するからだ。雇用とは契約関係である。したがって他方の契約主体の雇用側にも「契約の自由」を認められることとなる。でないと個人主義を基礎とする法体系として矛盾が生ずる。
 
 また個人主義を基礎に置いた社会は自由競争の立場をとる。この経済活動の自由からも雇用の自由は登場する。また求職側からみても「自由」を保証すれば、職業とは一種の社会的身分なので、その優位性を巡って競争が生じる。つまり勝ったものだけがその職業につけるということになる。

 ただし自由競争は力の論理が貫徹される世界である。したがって弱者たる被雇用者の「権利」を守るため雇用者の自由に制限がかけられている。

 したがって個人の自由を謳う「個人主義」は雇用側、非雇用側双方に「自由」を保証し得ない。その要因は個人の自由を巡る、(双方がそれぞれ完全には成立しない)個人主義のパラドクスにある。
 
 もちろん(社会的)「役割論」ならば就業の「保証」は出来るが(適した役割が与えられるが)職業選択の「自由」は必ずしも成立しない。そもそも「自由」とは、完全には実現することの無い「純観念」の産物に過ぎないのである。
 
 いずれにせよ就業の保証を達成するためには、役割論に立つ必要があるが、そのためには「個人主義」を現実に適用したものの一つである「私的契約の自由」や雇用関係を超える、組織形成あるいは関係を支える別の理論が必要となろう。



北村浩司