細田さん、レスありがとうございました。遅くなり申し訳ありません。

>この閉塞状況の突破口は,個人主義観念の中で,55年間(日本では)解体されつづけてきた,共認の”場”を再生することではないかと私も考えます。

確かに55年間あるいは、明治以降の近代化の過程において「共認の”場”」は解体され、本来、その「場=共同体」が持っていた機能を国家制度に置き換えられていったのだと思います。

例えば「寺子屋→学校制度」「無尽講(相互金融)→銀行・信金」「大家族(3世代)→介護制度」「結い(相互労働)→機械化」「寄り合い→選挙制度」などが挙げられます。

現在、老人介護施設においてグループホーム(10人単位での共同生活)に代表されるコミュニティーの再生が試行されつつありますが、どうしてもそれまでの育ちも、文化も、職業も全く違う他人同士がうまく共同生活していくには多く壁があるようです(いったん失われた共認集団を人工的に再生するのは困難)。

ただ、それでも人生の最終段階における健康、生き甲斐(喜び)、生活労働等の諸問題の解決策はコミュニティー(集団)ではないか、という試みは注目されます。

そして、同様のコミュニティー再生は「教育」「地域」「家庭」等でも必要になってくるのではないかと」思います。

>インターネットという”場”も,まだまだ共認の”場”を作り出しているとは申せないのですが,その可能性を秘めていると考えられます。

ご指摘の通り、インターネットだけではどうしても”場”の代替機能に留まってしまいます。

ただ、可能性としてはまずネットで”場”を共有し、現実の”場”形成へつなげていく役割や、運営後のコミュニケーションを補完する役割は十分に期待できるのではないでしょうか。「ネットと現実」は車の両輪のような関係かも知れません。

>対面・体感的な本源的集団とそのネットワークによる社会の新しい共認統合”場”が,究極的な創出すべき”場”になるのでしょうが, まず臨界点を超える為の共認”場”として「るいインターネット」の"場”に参加していきたいと思います.

同感です。私もここから、どのような”場”を立ち上げてゆけるかが課題だと思っています。



浅野雅義