親元収束する私達世代の親達が、年老い、動けなくなった時、どのような形で親の面倒を見るか?という事について議論した。

1.親元収束(特に母親大好き)しているのだから、親が年老いてからも、世話をする。
2.(お互いに)都合の良い表層的な親元収束なので、(親のお金で)老人ホームのお世話になる。

大きくは、この2つの意見に別れた。2については、大方みんなの意識の中にはまる物があった。親元収束は、双方にとって、とても都合の良い形で保たれている。親の期待=親の囲い込み。子の応合=それにより刷り込まれた、安心感、充足感に収束する事。ならば、『親の面倒見る』と言う事も、表層的な故、自分達の都合の良い方向に働き、本当に動けなくなった状態で、自分達の手を使い、下の世話までするのだろうか?と言う所へ至った。また親も、『子に面倒は掛けられない(掛けたくない)』という思いで、「最終的には老人ホーム」と言う選択をするのではないか?

まず、ここでの問題は、『親の期待』の履き違え。
本当に『親の期待に応える』と言うことは、どういうことか?

>問題は65才過ぎれば年金で生活という意識そのものにある。(96929

親たちも、私達と同じく、身体では役割を欲している。しかし、頭では、規範やしがらみによって「もう働きたくない」「休みたい」と思ってしまう。役割がなければ、活力も出ないはずなのに。。身体が欲している『役割』を一緒に探す、考える、掴む、事が『期待に応える事』ではないだろうか?自分達の都合の良く期待を履き違え、老人ホームに送る事ではなにも解決しない。
まずは、親元収束を脱する事が先決。次に本当の『親の期待』を掴み、それに応える事が必要だと思った。





西田香織