高齢者問題で最も有効性が高いのは高齢者に役割を作ることという答えになるのだが、新たな役割をひねり出すにはどうすればいいだろうかという発想になりがち。さらにはお決まりの地域コミュニティーや相互扶助の発想に入り込み、暇つぶしに何かをやるみたいな発想に陥ってしまう。

もっと根本的な高齢者の役割について発想の転換はないのだろうか?

ヒントを返信する阪本さんの投稿と実現論から探ってみたい。

>個人の自由を追求した結果待っていたのは、最終的には誰からも疎ましく思われ、誰からも期待されず、社会の足枷だとしか思われなくなる、そういう社会だったのだ。
この社会を変えるには、やるべきことが2つある。
一つは、共同体を復活させることである。
もう一つは、人々が誰もが担っていた「統業」を、万人の手に取り戻すことである。(69561)

>原始時代だけでなく農業生産の時代もそうであって、例えば農家は、今日の家庭の様な単なる生殖と消費だけの場ではなく、それ自体が一個の生産体であり、従ってそこには、自然圧力をはじめ様々な闘争圧力が働いていた。だから子供たちは、働いている両親の背中を見ているだけで(学校など無くても)、健全に育っていったのである。だが、市場拡大によって職場と家庭が分断され、かつ家庭が絶対不可侵の聖域となった。
(中略)
家庭には何の圧力も働かなくなり、その結果、家庭は子供を教育する資質をほぼ全面的に喪ってしまった。サラリーマン家庭が孕む教育不能という問題の深刻さは、当分の間は、まだ農家育ちの祖父母や両親が居たお陰で、顕在化してこなかった。しかし、農村から都市への大移動がほぼ終わった'70年以降、その致命的な欠陥が徐々に露呈され始め、とりわけ老人と共に農家時代の諸規範が家庭から消え去った'90年以降、若者たちの間に心の欠陥児が急増し、子供の精神破壊が恐ろしいスピードで進行中である。(実現論9_2_03

私権時代通して中年も含めて高齢者は集団の中で常に若者を育てるという役割だけはいつの時代も担ってきた。それは社会においていつの時代も秩序、規範を維持していくことが何より重要で、その点において高齢者の役割は失われる事がなかった。
翻って、現在あらゆるところで秩序が崩壊し、欠陥児が恐ろしい勢いで増えているのは、社会空間において最も重要な高齢者の役割が失われてしまった(若しくは果たせていない)事に帰結するのではないだろうか。

確かに市場社会や都市化、核家族化がもたらした外的要因は大きい。また、70年代貧困の消滅と共にそれまでの価値観が反転し高齢者になるほど、時代に合わない価値観に翻弄されているのもわからなくもない。崩壊し続ける共同体を前に何もできずに老いていく事の無念さも同感できる。
しかし、それらを差し引いてもこの30年間、今の中高年自らが己の自由と引き換えに規範群を自ら手放し破壊してきたのも事実なのである。また、都市を飛び出し、共同体を破壊した最初の世代(団塊の世代)がこれから高齢者の仲間入りをしようとしている。

これからの高齢者の役割を考えていく際にその部分を見落としてはならない。つまり、自ら破壊した社会に対する反省も悔恨もなく、ただ若者のように与えられる役割を待っているようでは話にならないのだ。
「今は尊敬できる高齢者がいない」若者がつぶやくこの言葉を素直にかみ締めなければいけない。

いつの時代も変わらないのではないか?規範を作り維持していくのは高齢者の役割、若者を暖かく育てていくのも高齢者の役割。
たとえ収束不全の現在であっても、そこの期待を見失ってはいけない。今それができる高齢者はほんの一握りかもしれないが、再びそこから始めてみてはどうだろうか?自戒の念を持って、未来への期待を残り少ない自らの生に賭けてみてはどうだろうか?

高齢者の役割はみんなの期待を受け取る事から始まる。
その延長に高齢者の仕事も共同体の再生も有るのだと思う。




田野健