>いよいよ、自我充足のために個人や自由という観念を楯に共同体を悉く解体し尽くした団塊世代が、年金や老人医療を受ける側に廻る時代を向かえる。<(99239、小圷さん)

私の周囲の団塊世代の「年金」の声は大方次の二つに分けられるようだ。
「受給年齢が引き上げられるだろうが、ま、なんとかなるだろう。」
「これまで払った分は税金と思わなくっちゃ」
いずれも、現在の年金制度がそのままうまくいくとは思ってないが、前者は年金は破綻するはずはないと思い、後者は年金をまったく信用(期待)していない層。
前者は払う原資はどうなるかまともに考えたこともなく、破綻している現実を捨象している。一方、後者は年金制度そのものを捨象している=年金制度がどのような制度なのか実はわかっていないのも後者の特徴。
総じて「仕方ない」でよし、としているところが団塊世代の特徴だろう。

私権時代は、共同体(みんな)が解体され、とことん個(自分)へと分断されていく時代であった。そして市場社会ではだれもが消費特権階級となり豊かさ=消費の自由を追求し快美欠乏を肥大させていった。
…働けなくなったら生活できない。だから生存権を確保するために年金制度等の社会保障制度を充実させる必要がある。特に働けなくなった老人はみなで助ける(相互扶助)必要がある。年金制度そのものはシステム的にいろいろ問題はあるかもしれないが、頑張ってきた人を支える、老人を助けるのは、われわれ日本人の心底に残る共同体質そのものである=年金制度は「必要悪」である、という声を聞く。

しかし、年金制度の「必要悪」の「必要性」とは、私権時代・市場時代の要請に応えることではないか。つまり、老人になっても私権存在、消費特権階級として存在させるためではないのか。「年金」とは「生産」をやめて「消費」に専念するための原資ではないのか。「年金制度」の本質は「死ぬまで消費させる制度」ということではないのか。
その証拠に「共同体」のどこを調べても『個人』を対象とした年金に該当する制度は見つからない。「原始共同体」の貯蓄はすべて「みんな」のために備えられる。年を取れば役割(老人の出番)が変わるだけの話だ。いつまでも生産過程=生活に関わる仕組み=みなの期待のこたえて充足できる仕組みをどう構築するかが共同体でいう保障制度だろう。

「年金制度」は私権制度という枠組みの中で老人=非生産者階級を消費過程にどう組み込むかという問題から発生した必要悪の社会システムであったと思うが、しかし、私権制度は今やがたがたで、だからこそ年金制度も必然的に崩壊している。従って、この制度が残存すればするほど新社会への転換が遅くなるということになる。

われわれが展開する共認運動は、まずは共認社会へ移行する上で「年金制度」は不要であり、むしろ活力を衰弱させる要因となっている事実を明らかにする。そして今必要な制度は、老人がともにみなの期待に応えられる役割(出番)をどのように用意するか、生産過程にどのように老人を組み込むかの議論や成功事例を展開することだろう。




吉国幹雄