朱子学を強いて高校の教科書に出てくる言葉を借りれば、「江戸時代に近代化に反対した保守派の思想である」と定義することができる。

そして今になっては、博物館で展覧するような、我々の生活に何の役にも立たない骨董品のような取り扱いを受けている。が、それは本当にそうなのだろうか。

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もちろん、男尊女卑といった、女性に対する差別や極端な親孝行思想など、問題点は多いが、現代の日本社会のような、深刻な道徳崩壊の問題に直面しており、気の狂った消費文化に溺れている病む社会では、未だに朱子学の伝統から見習う点が多々あるのではないだろうか。

それは目上の者の命令には無条件に従う、といったことなどからではなく、朱子学の最も魅力的な点である、行政、教養、道徳の融合から探し出せるかも知れない。

私たちは、まず、朱子学の遺産とは何なのか、そして、今の時代に偉大な知的伝統の価値を見出すためには、なぜ、学問的努力を傾注することが重要なのか、綿密に考える必要がある。


■時代の課題に直面して

今日の私たちの課題は、朱子学の教えから無数の宝物を算出することである。新儒教の伝統の多くは、現在の社会に適用できるものである。

現在の社会は今後ますます持続不可能になるであろうし、消費や衝動的な欲望に駆り立てられて断末魔的な視覚に惑わされ未来へのビジョンを明確に提示することができないでいる。

それは今日、現実から切り離せない二つの酷烈な問題をもたらしてしまった。

その一つは、西洋伝統の道徳的な崩壊である。

西洋での蒸気エンジンや航海装備などの先進的な技術や洗練された機関(世界統合貿易システムは築いたが)は、アヘン戦争時には圧倒的に強力な存在であったため、東アジア各国はあらゆる分野においても深刻な文化や制度の再考を余儀なくされたのだが、今日、このような環境はまったく変わってしまったのである。

西洋諸国は文化や科学、論理的規範に対しての懸念をほとんど持っておらず、非合理で、且つ、反科学的な、しかも強力な権力を生み出した。

そして、その新しい文化は、米国のドナルド・トランプ政権が本能に訴えかける低俗で近視眼的な政治的アプローチに最もよく象徴されている。

西洋文明はより一層、急進的な消費文化や世界戦争、そして、より深刻で陳腐な文化に結びつくことになった。
 

現代を生きる我々は、精神的な荒廢に直面している。私たちは虚無感に浸っており、無意味な消費を繰り返し、空虚な空間に暮らしている。

このような深刻な危機は、社会を改革しようとする努力を無駄にし、深刻な矛盾に陥らせている。それは、私たちは技術的で官僚的な解決策しか提示できず、社会政治の中にある精神的な問題を表現する方法を持っていないからである。


 
■退廃への挑戦

今の時代に生きる私たちは、次のような現状に直面している。今日の最大の脅威は、テロリズムでも景気の減速でも個々の政治家の行動でもなく、文化が退廃してきたことである。

個人は国家の未来には関心が希薄で、飲食、酒、性的快楽、休暇やスポーツ等が溢れる文化の中で暮らすことを優先するようになった。

人生の目的は目先の満足となり、犠牲は価値の領域から消滅してしまった。これが典型的な敗退の様相である。

残念ながら、現在の社会は市場への需要を創出するために間違った努力を費やし、人間本来の原始的な力を開放して、若者には表面的(ファッショナブル)な経験としての欲望を促進させた。

伝統的な儒教の合理性や自己統制、思いやりなどを野放し状態の野獣と履き違えてしまったのである。

行儀悪く食べ物を口に詰め込んだり、テレビをつけると20年前ならポルノとして禁止されていたはずの衣装をまとった半裸の女性が出てくるCMが平気で流れている。

このような戦略は製品の販売促進のためなら効果的かもしれないが、社会的なあらゆる分野において道徳的な退廃をもたらす結果となってしまった。

その結果、政策は国家福祉、安全保障、価値観の確立ではなく、富や権力蓄積のための単なる機械と化してしまったのである。

社会全体がこのように退廃してしまった場合、これらの問題を経済政策や技術政策などでは解決できないといおうことを認識しなければならない。

新儒教の伝統は、このような部分に多くの提言をすることができる。文化や健全な習慣の回復、退廃の性質とその治療法に関しては多くの事が述べられている。

特に、新儒教の伝統は、道徳的行動の原動力として羞恥の重要性を力説している。その意識の喪失こそが現代社会の悲劇を招いたのである。

伝統的な社会では、特定の行動が高齢の親を捨てるのと同等な、恥ずかしくて間違った行動だと考えられてきた。道徳的な義務が内面化して、深い羞恥心として現れていた。

儒教の表現として、「君子は独りを慎む(君子慎其独也)」という言葉があるように、倫理というものは誰かに監視されているという以前に内面から出てくるものでなければならない。

伝統的な羞恥の感覚を喪失すると、人は子どもの世話や職場の任務を遂行することだけで自身は道徳的な行動をしていると感じてしまう。

そして、社会全体のために自身の行動を倫理的に考慮したり、周囲の人々の行動を考慮する必要性を感じなくなるのである。
 
したがって、新儒教は、崩壊してしまった教育システムにも多くの提言をすることができる。

今や教育はこれ以上、価値を生むことが出来ない産業となってしまい、知識に対する倫理的・精神的な側面が未開発地として残ってしまった。



長曾我部幸隆