相手の欠乏を掴まなければ相手は充足しない。

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ロジック自体の筋が通っていたとしても、こっちが納得するかは別の話なのだ。

 

客観的事実でも、実は解釈の余地がいくらでもあるという罠
世の中には、「ちゃんとしたロジックがあれば、みんな同じ結論にたどり着く」と思っている人は多い。

ビジネスの世界ではとくに、「ファクトベースのロジックで相手を説得しよう」みたいな言説をよく見かける。

 

たとえば、この一節のように。

 仮に、世界共通言語があるとしたら、それは英語ではなく数字です。それも、難しい数字ではなく、売り上げ、出荷の個数、コスト、利益率などの単純な数字です。(……)

どんな文化の人でも、絶対に共通して認め合うことができるような単純なものを基礎とします。(……)

では、どんな文化の日とでも絶対に共有して認め合えるものとは何なのか?

それが、論理(ロジック)と数字です。英語ができなくても、裏で何を考えているのかわからなくても、論理と数字は相手に伝わります。


こういう主張は、本当に、本当によく見かける。

 

でも、「正しいロジックがあればみんな自分と同じ結論に辿り着く」というのは、正直思い込みじゃないかと思う。

たとえロジックの根底となる客観的事実が揺るぎないものだとしても、数字や事実には、いくらでも解釈の余地があるのだから。

 

ファクトベースのロジックでも、みんな同じ結論に至るわけじゃない
数字をはじめとしたファクト、それに基づいたロジックを軽んじるつもりはない。

むしろ、筋が通った主張は大好物だ。

ただ、解釈の余地がある以上、「正しいロジックがあれば相手は納得する」と期待しすぎないほうがいいとも思う。
たとえば、

「こういう理由で成功率は95%です。だから自信を持っておすすめできます」

に対し、

「ほぼ成功するんだな! よしやろう!」

と言う人もいれば、

「なぜ100%じゃないのに自信満々なんだ? まだ懸念要素があるならそこを排除してからだろう」

と言う人もいる。

 

「売り上げ10%増加です。このままやっていけば問題ありません」

に対し、

「おぉ順調だな、この調子でがんばろう!」

と言う人もいれば、

「業界全体に追い風が吹いていたなかでの10%は少ない。反省点を探すべきだ」

と言う人もいる。

 

ファクトをベースに「成功率が95%なので優れた方法です」「売り上げが増加したので施策は正しかったでしょう」と言えば、多くの人は「なるほど」と理解はするだろう。

 

しかし、そのうえでどう受け止めるかは人それぞれ。

同じファクトを根拠にしても、みんながみんな、同じ結論に至るとは限らない。

 

ロジックから自分と同じ結論に誘導したいのであれば、「ゴール地点の設定」という、大前提の話をするべきじゃないだろうか。

 

ロジックで相手を納得させるには、ゴール設定が不可欠
ロジックがもっとも効果を発揮するのはいつか。

それは、目標値や判断基準が明確で、みんなが同じ方向を目指しているときだ。

 

「みんなでここに行きましょうね」と言ったうえでデータを示し、「ゴールまでの道はこれが最善です」と言ってはじめて、相手は「なるほど!」と納得してくれる。

ゴール地点が明確じゃないのに、「ゴールまでの道はこれが最善です。根拠は〜」と言っても、「うん、それはわかったけど、そもそも自分はこっちに行きたいんだよ」と相手は納得しない。

 

冒頭のわたしの居酒屋バイトの例でいえば、「売り上げのために集客できる人が販促に行く」という、店長のロジックはまちがっていなかった。

でも、「店が潰れないようにがんばる」というゴール設定をするなら、わたしだけでなく他のアルバイトにも同じように店への貢献を求めるべきだったと思う。

そうすればわたしも、「みんながんばってるんだからわたしも一緒にそこへ向かっていこう」と思っただろうから。

 

このように、ロジックというのは、みんながゴールを共有してはじめて意味を成すのだ。

ただし、「相手を説得する」という目的をもった「ロジック」の話だから、研究分野などではまた話はちがうけど。

 

「成功率90%がボーダーライン」と目標を共有したうえで「成功率95%だから大丈夫」なら、相手は納得するだろう。

「他社を意識するよりもまず自社の業績を上向きに」と方針を示したうえで「売り上げ10%アップは充分な結果」なら、相手は納得するだろう。

 

目標数値や判断基準があいまいな状態で展開するロジックは、ただの屁理屈や押しつけになってしまう。

「ゴールを設定して解釈の余地を狭めておく」という前提があってはじめて、ロジックで相手を納得させることができるのだ。



長曾我部幸隆