2014年08月

存在の意味とボケ

定年制の廃止 木橋さん
>“手を動かし続ける”ことが呆け防止に繋がるという。“手を動かし続ける”というのは、“仕事をし続ける”ということである。仕事は、皆との関係の中で成立しており、皆の期待に応えることで成立する。皆の期待がなくなったとき、それは親父のようになってしまうのだろう。

卑近な例で恐縮ですが、私の祖母が木橋さんのお父様と同じような状態です。

私の祖父(祖母の夫)はもう7年も前に亡くなっていますが、彼は周囲に迷惑をかけることでは人一倍才能のある人でした。人の上にいることを当然のように、いえ当たり前のことだと思っている人で、そんな祖父に祖母はいつも気を使い世話をしていました。その祖父の死後、祖母は昔を懐かしむような言動が増えました。しかしそのころ私はまだ中学生、妹は小学生で、まだ手のかかる年でした。でもそれから7年、私は実家を遠く離れて大阪で就職、妹達も社会人3年目で頑張っています。そして祖母は急激にボケていきました。

「手を動かしつづける」とか「指先を使っているとボケない」とか小手先のいわば技術だけでボケは防げるものでしょうか。祖母は祖父の死、孫の独り立ちによって自分の役割(それは重荷とも言うことが出来ます)が一つ一つ消えていくのを感じていたのでしょう。人間にとって最も恐ろしいことは自分の存在に意味がないことです。それはつまり、誰も自分に何も期待しないということです。祖母は自分に対する期待が薄れていくごとに、自分という体機能を手放していってしまったのでしょう。

お年寄りが欲しているのは、お金ではなく自分の意味だろうと思います。そして老人ホームのようにお年寄りとその介護人だけのような人種の限られた社会ではなく、若年から老年までが生きる社会でこそ意味(重荷)は見出されるものでしょう。

お百姓さん 

定年制廃止の提案

老後に対して不安を抱える人が多い。定年後の生活を憂えてのことだろう。戦力の落ちた年寄りは会社から、社会から放り出され、そして子供達からも見捨てられる。現代、この老人達を受け容れる為に、国家財政の四分の一を“社会保障制度”につぎ込み、福祉国家日本を形の上で維持している。一方で、700兆円に達しようとしている財政赤字の半分がこの社会保障制度によるものであることも忘れてはならない。

 私の家は親父の代まで専業農家であった。親父が60になった年に、弟が家を継ぎ、親父を辛い作業から開放した。長年の重労働に対する、親孝行のつもりであった。機械化された農作業は、弟が役所に勤めながらでも十分可能となった。しかし、薄かったが黒かった親父の髪の毛は、半年で真っ白になった。と同時に呆けが始まった。県一にまでなったことのある、親父の生きる場を取り上げたからであろう。あまりに急激な変化であった為、日に焼けた顔が真っ白に変わった次の年の春から、親父用の田を残し、以前のように米作りを始めさせた。髪の毛は黒くならなかったが、呆けは直っていった。その後、2年前に死ぬまで百姓を続けた。

 “手を動かし続ける”ことが呆け防止に繋がるという。“手を動かし続ける”というのは、“仕事をし続ける”ということである。仕事は、皆との関係の中で成立しており、皆の期待に応えることで成立する。皆の期待がなくなったとき、それは親父のようになってしまうのだろう。

 人を大事にする社会を目指すのであれば、年齢と能力に応じ、何らかの役割を果たせる集団を創り上げるべきではないのだろうか。皆からの期待がありつづける限り、人は元気でいられるものだ。今後の老年人口の増加を考えた場合、豊富な経験をもっている年寄りでも、体力は若いもんに負けるが十分集団に貢献できる筈だ。その意味で、金と住む場所だけを与える、現代の福祉政策のあり方には疑問が残る。

木橋哲夫 
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