2014年11月

老人福祉施設の不自然さ

特別養護老人ホームなどに代表される老人福祉施設というものは、やはり社会的には極めて不自然な施設であると思います。そうした施設で老人問題の何が解決できて解決できないのかを、設計にあたってよく考えますが、つまるところ、「老人福祉施設としてこうすべき」ということはあっても、「老人問題をこうすべき(だから施設はこうあるべき)」というようにはならないというのが老人福祉施設や老人問題の現状であるということです。

そもそも老人福祉施設が何故必要なのかは、単純に一般の多くの人々が、自力で面倒を見切れなくなってきたことに尽きます。何故見切れなくなったのかは、地域共同体の崩壊や個人主義の蔓延、産業構造の変化、長寿命化、福祉の政治課題化など、数え上げれば限がありませんし、いまさら、地域や親族で面倒を見よなどといったところで、もはや不可能といわざるを得ないでしょう(そして驚くべきことは、こうしたことが施設を運営する社会福祉法人の問題ではないということなのです)。

姥捨て山なども、まだ地域の共同体がこうした問題に自前で対処していた時代のものであり、そうしなければ、あとの世代の負担が重すぎることを十分理解し、老人もその子供たちも全て納得ずくで「捨てる」ことを選択するしかなく、そうした状況下で捨てられる老人や捨てなければならない仲間たちが総じて「皆のために」を考えてのことだというように、まさに「共認」による解決がなされていたと見る事もできるでしょう。

福祉法人の方々のそうした被虐的な揶揄よりも、そうするしかない法人自身の不全が、それこそ奇麗事では解決できないことを無自覚的にでも感じ取れば、恐らく強い違和感を感じるのではないでしょうか。

また、法人の方々の真意も、「姥捨て山でも良いが、そうしたことが社会的にどう評価されているのか、共認されているのか」というような一般の人々や社会、行政にたいする「共認の不全」というべき嘆きであったかもしれませんし、或いは、こうしたことに対する老人自身の感じ方や、仮に感じないとすればどうするのかと言うようなやはり「お世話・色付け」の不自然さを自覚することの恐怖もあるのかもしれません。

いずれにしてもそうした事柄に対して老人福祉施設は、ある「見切り」を取った後に成り立っているのであり(そうである以上残されたことは、皆が納得できる「介護」をするしかないということであり)、問題はそれ以前にあること、そうしたことに施設の運営者が関わり得ないことが既に自覚されていることなのではないでしょうか。

この問題は施設がどうかということを越える問題として、こうしたことに関わる人々が様々な言葉でその不自然さを訴える事が重要であるように思います。



斎藤裕一

「協働の場」は「幼・少・青・壮・老」が集える場

 「老人」に視点をおいた以下の投稿を興味深く読ませて頂きました。
>老人は人生経験を積み様々な知識と知恵も持っています。それを次の世代に伝えていくことは、老人の役割として大事なことだと思います。又孫の方も人の生き方の先の方まで体で感じとっていくことになるでしょう。
それは生きていく上で、一つの大きな指針になると思います。(29702

>やはり、第一線に立つ更なる老人はいくらでも目に入るのでは?高齢の政治家、社長、俳優、芸術家等々。大それたことを考えなくても、「老人」に甘んじる必要はないのであって、新たな技術の一つでも身につけたらどうかと思うし、過去の蓄積に更に積み上げをするのは若者より有利なのではないか。
29925

 「子育て」において「協働の場」の必要性が問題になっています。この「協働の場」を考える時に、無意識のうちに「子供・母親・父親」だけを年頭においていることに、お二人の投稿を読んで気付かされました。日本の社会は、いつも若者を意識して動いている。若くて健康であることにこれほど価値をおいた時代はなかったのではないでしょうか?その逆に、円熟とか老成といった点は殆ど省みられることがなくなってしまいました。

 現代を取り巻く情報社会。目まぐるしく変化する時代にあっては日々新たな情報が珍重される。しかし、その情報を取捨選択し、生活の知恵にしていくためには、蓄積された知識に基づく判断力が必要です。日本は世界一の長寿国であり、確実に高齢化社会へと向かっています。(そういう私自身もソロソロ仲間入りですが・・・・)殆どの人は60歳定年後の20年の人生を、経済的にも精神的にもどう支えていくかという課題を前に現在を生きているのです。

 また「仕事・起業・共同体 」の会議室での村上さんの投稿「何もしていない人がいるという社会はおかしいのではないか?」(29771)において
>男女の軸と共に成長段階という軸においても役割は当然あるものだと思うし、全ての人に役割が与えられ役割を全うすることで充足する、それが真っ当な姿ではないかと思うと共に、今の社会はおかしいと改めて感じました。
に同感です。「協働の場」が「幼・少・青・壮・老」が集える場、それぞれの世代で担える役割を分担し合える場となる必要があると思います。




大木康子

何もしていない人がいるという社会はおかしいのではないか?

男女の会議室で男の役割・女の役割という話題が取り上げられることがありますが、男女とは別に人の各成長段階という観点から考えても、集団・社会に属している限り、役割というのは必ずあると思うのです。ところが、今の社会には仕事をしたくてもできない人達や、旅行三昧の老人達など、社会の一員として機能しているようには見えない人達がたくさんいます。これはかなり異常なことなのではないだろうか?と、掲示板を読んでいてふと思いました。役割がわからなくなっている社会、役割を与えきれない社会。

男女の軸と共に成長段階という軸においても役割は当然あるものだと思うし、全ての人に役割が与えられ役割を全うすることで充足する、それが真っ当な姿ではないかと思うと共に、今の社会はおかしいと改めて感じました。



村上靖佳

話を聞いてて楽しく感じるのは、実は友達ではないかも。

 かつて大学で、あるホームページを運営している方の講演を聴きました。そのホームページで連載をしている人と、その連載を読んでいる人のことについての話になり、次のようなことを仰っていました。
「読み手は20代や30代の若い女性が大半を占めています。それに対して、人気のある連載をしている人たちは、ほとんどが50歳を超えているんです。」
 その時は、若い人が年配の人々の話を読むなんて社会も変わったな、なんて何気なく聞いていましたが、今になって思うことがあります。それって社会が変わったのではなくて当然のことなんだって。

 私は、高校生の頃は同年代の友人とばかり群れて遊んでいました。それはそれで、とても楽しいと思っていました。しかし大学に入って、地域の人々(田舎のおじいさんやおばあさんたち)と話したり、お酒を飲んだりする機会が増えました。はじめは共通する話題が見つけられなくて、会話が苦痛としか言えなかったのですが、「ちゃんと聴こう、この人の話を吸収しよう」と考えをあらためた途端、彼らの話が自分の中にしみ込んでいくように感じました。いろいろな体験談や長い間生きてきて思うこと、地域に対する不満や時には孫の話まで、彼らは話の蔵を持っているといっても過言ではありません。しかも、実感がこもってる。
 それに比べて友達と群れて話していたころは、その時楽しくても家に帰ると何だか空しさを感じていました。高校時代の友人との会話って、中身が薄くて、得るものが少なかった。今の私は、同年代の人たちと話をするのも楽しいと思うし高校生の頃のような空しさはちっとも感じないけれど、やっぱりいろいろな経験を積んできた人の話を聞く方が、より満たされる感覚を覚えます。いろいろな認識を持っている人に「人としての魅力を感じる」のです。
 年齢は関係ないとは思いますが、豊富な経験とそこから得た答を持っている人が、皆から評価されるんだと思います。



山崎許子

市場社会とは、人間がダメになるシステム

> また、重度の痴呆や奇行が止まずに特別養護老人ホームへ入ってきた人が、共同生活の中で役割を受け持つと全く症状が出なくなったり、奇行がおさまったりしたという話も新聞等で幾度か目にしたことがあります。
> 幼い頃から、そして老いても、つまり一生ずっと人と接する環境というのは人間にとって非常に大切なものなのでしょう。


 おっしゃるとうりだと思います。
 実際、痴呆という症状は、近代家族=核家族、サラリーマン家族が増大するにつれて、社会問題化してきています。

◆今の家族制度は市場経済社会のメカニズムを前提にしている

 どういうことかというと、今の家族制度は近代社会=市場経済社会のメカニズムを前提にしているから、こういうことになるんだと思うんです。

 つまり、人間が個人を単位にして、労働力を売ることで生きていくという様式があって、それを維持するためのシステムとして、今の家族制度ができたと。

 だから、学校教育なども、こういうシステムに適合する人間を作ることに主眼がおかれています。
 今の家庭というのは、現在の社会構造を維持延命するための構成要素を再生産する場、と定義できるでしょう。

◆「サービス業が繁栄する」とは、人間存在が壊れているということ

 20世紀ではサービス業というものが大変発展しました。

 でも、このサービスというものは、ある日、突然降って湧いたりして出来たニーズではないんです。もともと、みんな誰しもが、やっていたことなんです。
 つまり、市場経済の社会では、人間の役割や能力、関係性というものをどんどん分解して、部分ごとに商品として切り売りする、それが産業であり、豊かさなんだ、経済の発展なんだ、という考え方をします。

 しかし、これがおかしいのは、そもそも人間の役割や能力を分解したりすることによって、実は人間の存在性を根本的に崩しているのではないか、ということです。
 痴呆も、もともと人間に備わっていた、関係世界や役割などの存在の条件を奪ってしまったことの結果と考えられます。

 逆に言えば、こういう社会の中で暮らしている限り、人はどんどん狂っていくし、ボケていくということなんです。

 市場社会とは、人間がダメになるシステムであるということが言えるかもしれません。


阪本剛
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