2014年12月

福祉という名の私的利権の奪い合い

年金制度が国家ぐるみのねずみ講、という見方。
確かに、払った額より多くもらえれる点、後から参加する私達を含めた下の層は、払った額が戻ってこないばかりか、制度自体が破綻し、そもそもまったくもらえなくなる可能性も高いことを考えると、的を得た表現だと、妙になっとくさせられます。

そういえば、最近、友人の奥さんと等、小さいお子さんをお持ちの方とお話する機会があり、そうすると必ず入所できる保育園が少なくて困っているという話をお聞きます。
と同時に、社会をリタイヤした年寄りには、年金と言う形で、補助が沢山もらえるのに、これからを担う子供に対しては、補助がすくない、これはおかしい、と露店でも口をそろえたようにいっていたのを思いだしました。
両者とも、福祉だよりなのは同じなのですが、人権や平等を掲げながら、実態としては、私的利権の奪い合いにしかなっていないと云う事だと思います。

一昔前であれば、地域ぐるみでやリタイヤした老人が子供の面倒もみるといったことも可能だったが、核家族化が進み、個々人がバラバラになってしまった現代では、なかなか難しい。
一方で、市場という場でしか働くすべを持たない大多数の人も、定年と言う形で、なかば強制的に市場からはじき出され、結果として、元気で働きたいけど働けない、活躍する場もなく、年金をもらって、ただ悠々自適に暮らしているという年配者もまた多いのではないだろうか。

人々がバラバラになり、福祉という旧観念による支配が強まれば強まるほど、要求だけが高まり、さらに人々がバラバラになり、さらに福祉に頼ろうとし、また頼るしかなくなる。
こんな悪循環の中にいるように思えてきました。
その結末は、国家や制度の崩壊・破綻であり、それはもう直前までせまっている。
そうだとすると、とても恐ろしいことのように思います。

旧観念に変わる新しい認識の早急な広がりの必要性を感じます。




三澤超洋

年金問題+定年問題⇒高齢者の役割

>「65歳以上の高齢者=扶養すべき弱者」という固定観念を問い直してみる必要があると思いますし、何より、世代間の相互扶助とは何なのか(果たしてお金を払うことなのか)?ということを考えてみる必要があるのではないかと思います。

一定年齢を超えたら誰も彼もが一律に弱者というのはまったくおかしなことですね。同じようなことに定年制度があります。

社会不全が高まるなかで、うつ病になる人がものすごい勢いで増えていますが、うつ病の一つに「定年うつ」というのがあるそうです。
闘争存在である男が、一定年齢である日から突然に闘争対象をもぎ取られてはお役ご免になるわけですから、役割欠乏から存在不安が増しうつを患っていくのも何ら不思議ではありません。

かつて生産と生殖が一体の場であった時代には、生存圧力もあいまって老若男女の誰もが役割(みんな期待)を担っていましたが、消費だけの家庭と利益追及第一の企業とに分断された結果、高齢者の役割は疎外されて喪失してしまい、存在自体が厄介なものとして疎んじられるようになった感さえあります。

誰もが老いて果てるまで社会的役割(みんな期待)を担い続けられる社会、これがみんなが真に求めていることだと思うが、福祉・相互扶助を考えるうえで、課題~役割という視点から問い直す必要があるのだと思います。



衛藤信義

働くと言うことは『サラリーマン』に成ることだった時代。

高齢者問題を、考えると男の高齢者が惨めだと感じます。男の高齢者は、会社を定年退職してしまうと、社会との関係が切れてしまい存在価値が見出せなくなってしまうからです。

生産が地域社会や家族と一体となっていた時代は、定年退職という制度もなく、年をとっても何らかの役割を持って社会参加できました。地域社会が機能していたときは、世話役と言う役割も残っていました。

しかし今や、サラリーマンの定年退職後の男は、本当に社会との接点がなくなってしまう。もう少し突っ込んで考えると、『サラリーマン』と言う制度下で働くことは、表面上は社会参加しているように見えるが、それは幻想かもしれません。

お金儲けの為だけに機能分化した『会社』は、効率的に稼ぐことの追求により『サラリーマン』をつくり、効率が悪くなるとお払い箱の『定年退職』です。効率的に稼ぐための、人間関係、人繋がりは、定年とともに消えてしまいます。

私権制度における『会社』『サラリーマン』と言うシステムは、そこに人繋がりがあるように錯覚してしまいますが、それは私権獲得のための偽りの人間関係であり、本当は『独り』であることが、定年退職で明確になるように思います。

若者が「きちっとした」会社に勤めないで、フリーターが多くなってきている事は、その様な古いシステムで『独り』となる『会社』を忌避しているのだと思います。

『会社』に縛られずに、自分達の仲間関係を広げている主婦のほうが社会的な関係をもっており、活力があると言う逆転現象にも注目する必要が有ると思います。

今や、古いシステムの『サラリーマン』に変わる本当の関係が求められているのだと思います。





新井弘

人の役に立つ事は、ボランティア精神を脱して出来るもの。

先日、某保健センターに勤務して農業に興味を持っている女性から面白い話を聞きました。老人のボランティア活動をしている中から以下の様な事を考えやりたいそうです。

「農村は、老齢化して食事や生活が一人では儘ならなく成ります。其処で給食センター付き公民館を作って、歩ける人はセンターの食堂まで来て貰って食事をし、歩いて来れない人には弁当の宅配をする。その食事の用意も働ける老人でして、宅配も元気な老人がする。その働き手には、売り上げの中から活動成果として小遣い程度のお金を支払う。食材は、田や畑で動ける老人達で自足すれば赤字迄には成らないだろう。その地域の人達と事業を起こせば、人の役にも立つし面白い事が出来るのではないかと。こんな事を考えていると、ボランティアだけの意識では長続きしないのです。其処でお金を儲ける必要は無いけれども、事業(生産)としての目的が無いと全て流産してしまうのですね。」と。

其処で感じた第一点は、ボランティア活動は偽善では無かろうか?と。人の為にするとしても、助ける本人も生きていかなければ成らないのです。学生や専業主婦達がボランティアと称して活動出来るのも親や旦那が生活基盤を与えているからで有り、要するに自分の生活保障は他に押し付け善意者の自己満足に浸っているだけなのでは無いでしょうか。だから、自分の生活基盤が問題に成った時、ボランティアを止めてしまうのです。其処にボランティアの嘘さが有ります。

第二点目は、現在の老人福祉の嘘さです。老人福祉は、年金を配布して仕事を奪い取り、一人で生きて行けなければ介護施設で無駄に生かされてしまいます。老人も社会やその地域で人の役に立ち生活基盤を確保する事で最後まで活力が持続出来るものと思います。農村であれば、自分の体力や経験により出来る仕事は幾等でも有ると思うのです。

人の為に役に立ちたいと考える時、ボランティア精神では駄目で有って役に立つ相手が活性化出来る事業を先ず考えなくては成らないと思います。農業であれば、農業の不全を感じる当事者が新概念を使って考えるしかないのです。その協働の中から老若男女を問わず参加できる生産拠点が出来上がって行くと感じます。





松本幸二

愚痴では活力が出ない。

年寄りが若者を嘆くのは、代々受け継がれてきた愚痴で、愚痴に止まる話では、説得力も活力も何も生まれてこないのは当然。

>議論の土俵を現在に移行させれば、同じ社会の当事者として現在の目の前の閉塞から可能性について共に語り合うことはできるのではないでしょうか。<(48183

若い人達に、おばあさんの知恵袋のような、冠婚葬祭のしきたりや着物のしまい方のコツの話をすると、「そうすれば良いのか。」「いいこと聞いた。」といって喜んでもらうことがあります。

そんな日常の何でもない小さなことでも、喜んでもらうと、嬉しくなり捨てた者ではないなと、活力もでます。

若者に話しかけると、驚くほどすんなり受け入れてもらえ、拍子抜けするくらいです。
年配者も、現実を察知し一番早く動き出す若者に、昔を押し付けるのでなく、年配者が今を受け入れることも必要と思います。

>ジェネレーションギャップとか、妥協点を見出す歩みよりとかいう表面的なものでなく、現実にとことんまで立脚した意識を相互に認め合うことが先決だと思います。<

「老いては子に従え」の言葉がありますが、従うのでなく、現実直視の苦手な年配者は若者に現実を教えてもらい、年配者は旧観念に毒されていない若者に、実感体験を語りことで、融合し「みんな一体」から次代を生む活力としたいです。




浦野てる代
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