2015年01月

外圧と痴呆(認知障害)との関係

リンク (川瀬神経内科クリニック・川瀬氏)

>東京都老人総合研究所 安藤等の研究によれば、飼育箱に観覧車やトンネルなどのおもちゃを入れておく刺激の多いねずみと少ないねずみの比較で、多いねずみは知能テストの結果がよくシナプスが大きい(電子顕微鏡)ことが明らかにされた。

>閉じこもり高齢者は痴呆の発症率高い。社会的つながりの多い高齢者は痴呆発症率低い(ストックホルム研究)。

>カナダ4600人の5年間追跡調査では運動を良くする人はしない人の半分しか痴呆にならない。歩行、水泳は脳の血流を増やす。

>アルバート・アインシュタイン大学で、75歳以上の高齢者470人追跡調査した。どんな趣味を週に何回行うかで、グループ分けして、それぞれの痴呆発症率を調べたチェス、将棋を楽しむ人は、そうでない人に比べ痴呆になる割合が74%低い楽器を演奏する人は、69%減る ダンスは76%低下する。  

>以上の如く断片的ではあるが脳は使わないとボケる(廃用性痴呆)脳を使うほどボケない、若いころからシナプスを鍛えておけば、年をとってからの脳の衰えも軽くてすむということが明らかになりつつある。金子等も廃用型痴呆の診断基準として「若いころから感性に乏しい生活をしている(音楽、絵画、スポーツ、ゲーム、詩歌、動物飼育、花栽培などに縁のない暮らし)、家族への思いやりが無く、家族も感性に乏しい、過去一年間に週2~3回友達と交際したり、趣味の会合に出たりしていない、定期的に散歩やラジオ体操をしていない」などを挙げている。

先日、たまたま行った近所のお好み焼き屋のおっちゃんが、介護をやってる常連客の話を始めた。

「…そのおばちゃんの勤めてる近所の医療福祉施設では、手におえない痴呆(勝手に徘徊したりする重度の痴呆。今は“認知障害”と呼ばなくてはならなくなったそうですが)の人は、不思議とほとんどがもと学校の先生やねんて」。

なんで?って聞いてみると、

「そこそこの社会的地位があって、引退しても年金を十分もらってるし、悩みや危機感がないからとちゃうかな?」「新しく習い事でもすりゃいいものを、それまでおやまの大将できたもんで、人に教わるってのがプライド許さんらしく、そういうのにもほとんど手ー出さへん。だから普通の人よりボケも進むんやろ」ということらしい。

やはりそうなのか…と思った次第。外からの圧力(現実の圧力)を受けないと、人間ボケていくんや、と思ってこわくなった。

そう言えば、若年性痴呆といって、密室家庭で家族以外のコミュニケーションをほとんどとらないで家事しかしてない“主婦”の脳が萎縮してきている傾向にあるという報告をTVで特集していたのを思い出した(MRI画像で、健全な人の脳との違いが一目瞭然で、被験者も愕然としてたっけ…)。

>「圧力や緊張状態は有害なもの」という考え方そのものを見直す必要がありそうです。(44629

これまでは、いかに快適な環境にするか・ストレスを取り除くかということばかり追求し、それが商売になってきた(と同時に全ての人たちの活力を衰弱させてきた)ように思うが、これからは期待・応望の圧力をいかに取り入れるか、役割充足・共認充足による脳の活力の再生をいかに促進していくか、というふうに発想を180度逆転させない限り、ますます認知障害(痴呆)が増えていくことは間違いないように思う。




蘆原健吾

時代潮流と定年後の高齢者状況は同じ。認識次第で可能性は開かれる。

>定年を機に考える・・・高齢者が需要者から供給者に変われるとしたら、これが一つのそして最後の岐路ではないだろうか?(83182)

「定年がチャンス!」

私もそう思います。最近、定年を迎えた男性の方々とお話する機会がありました。また、私の母親も父を失い、しがらみのない世界に生きることを考え始めたようです。

しかし、私は、定年は、最後の岐路とは思いません。60半ばにして、平均年齢からすれば、15年~20年はまだまだ、活力をもって生きていけると思います。これは、脱集団と考えれば、最初の可能性を見出せる機会だと思います。

今までの私権社会においては、私権獲得の競争の体力、能力、活力などがなくなり、力の原理内で生きてゆくことが困難になれば、お払い箱となります。それは、年齢に関係なく、そうでした。

定年を迎え、その私権獲得競争という他人からの掠奪闘争や序列原理(身分)の社会のしがらみから解き放たれる時です。子供を育て終わり、家庭でのしがらみを取っ払える時です。いままでの社会の知識や教育を受けたことがベースにあります。年金でそこそこの生活も可能ですし、食うことも生活することも困りません。そう考えると、なんのしがらみもなくなることになります。ただ、一つだけ、所属する集団を失うことです。特に定年を迎えた男性は、職場という集団の中で定年まで生きてきます。そこが最大の活力衰弱の原因でそこさえクリアできれば、活力衰弱した年金生活や解脱に陥るのではなく、活力を再生することが可能だと思います。

定年からの人生は、みんなの期待に応えられる最大の実現基盤をもてることになります。

また、時代は、その状況と一にするように、変化しています。序列原理から共認原理へ、また、私権獲得から答え探索や認識形成へと活力源を移行していく世の中の流れに乗れるのは、定年後の高齢者だと思います。一般のサラリーマンでは、しがらみ多く、追従できない可能性が高いからです。(しかし、企業も現実を見て、利益追求から統合軸を転換していけば、可能性はありますが・・・・)

その意味で、高齢者には、その実現基盤を備えています。最後でなく、最初の新しい活力源を見出す機会だと思います。

私事ですが、最近、特定行政庁では、「シルバー人材」という派遣を行っています。私の母親もそこでかなり活力を頂いているようです。仕事の中身は、高齢者が高齢者の掃除や面倒をみるというものですが、規程された時間外でも、その方のお世話をするようになっています。まだまだ、施設清掃や警備員や駐輪場整備や子育て支援や保育園での保育補助のような簡単なものだけのようですが、低賃金で今後期待される部分でもあります。そこで、子供、大人、高齢者などの共認形成や集団形成に役立てればよくなるのではと思います。露店へも来てくれるといいなぁとも思っていますが・・・・・
そこに行ったのも、「これから生活にこだわる必要もなく、自由になんでもできるんだから・・・・」という発想からだと思います。

認識転換さえできれば、可能性の実現基盤はあると思います。絶対に

「チャンス!」です。

期待したい。






近藤文人

定年はチャンス!

>農業従事者や自営業など一生続ける(守る)家業がある人は、その家や集団での役割を全うしていける。しかし、サラリーマンが定年退職したら一切の生産基盤を失ってしまう。脱サラには、歳を食っているし成功の可能性も低いので、大半はアンケートのような生活が一般的だろう。しかし、意識を変えることができれば、むしろ農業や自営業ような守るべき生産基盤のシガラミがない分、自由な活動が可能である(82950)

「来年からはどうしようかな、仕事は半分にして、地域のボランティアをやりたいと思っている。給料はそこそこでいいんだ。何か社会活動に参加していないとボケるからな。」来年定年を迎える団塊の世代の男性がいつも行く喫煙コーナーで仲間と話しているのを小耳にはさんだ。
大組織の副所長の肩書きを持つ人物である。「ボケる」という動機付けは正面きって社会の役に立つんだという事への青臭さ、恥ずかしさからとも思えるが、本音をしまい込んででも何か社会と繋がりたいという気持ちの現われではないか。

退職後どうするかという問いに確かに多くの高齢者は何らかの社会活動に身を置きたいと一旦は考えるようだ。
一昔前とかなり様相が違う。仕事を見一儲け、生涯現役とか、趣味に身を投じて自分を磨くとか、もうゆっくり休みたいとか・・・そんな感じではない。しかし実際に社会活動を実践している人は存外少ないのではないかとも思う。

彼らはいずれも会社員として数十年組織の利益の為、家族や自分の利益の為に身を投じてきた。確かに社会のこの間の大きな変動を肉体に刻みつつも、できるだけそれに反応しないように生きてきた。なんで屋をたまに訪れる高齢者の方々応援はしていただくものの、自分達がその中に入ってやろうという方は殆どいない。

定年を機に考える・・・高齢者が需要者から供給者に変われるとしたら、これが一つのそして最後の岐路ではないだろうか?
人は人生に何度か選択をする。学生、就職、退職。
就職で会社に入り、退職で会社からリタイヤする。定年を機に社会活動をしてみたいという欲求。それは裏返せばようやく等身大で社会を見る機会を得たとも言える。まさに会社人から社会人への転換、本当の意味で”社会に出た”を実感できる門出ではないだろうか?

多くの学生が就職をする時に考える社会って何?という問いはそのまま定年を迎える高齢者にもあてはまるのではないだろうか?
そして同時に彼らはこれからの数十年どう生きるかという選択を迫られる。これまでどう生きたかという総括と共に。

しかしせっかく起きたそれらの問いも岐路を過ぎれば何ごともなく年金生活に埋没してしまう。それが活力を衰弱させていく入り口とわかりながら。
馬場さんが言うように会社という柵から離れてようやく自由になったのだと思えれば、さまざまな活動が可能であり、本当に役割を求めるのならいくらでも社会的役割は存在している。

定年はチャンスである。高齢者の方へ、意識を変えてみて欲しい。




田野健

元気な高齢者になるために

老後を迎える団塊の世代に、老後の理想の生活をアンケートした記事をみたら、「フリータイムの仕事」「ボランティア」「趣味旅行」がベスト3だった。回答者はサラリーマンたちで絵に描いたような無難な意識潮流である。経済的なことは脇に置いても、意識や活力は、年金をもらう人(需要者)に変わった途端、家族や世間から邪魔者扱いが始まり、アッと言う間に破綻しそうである。

>この社会を変えるには、やるべきことが2つある。一つは、共同体を復活させることである。もう一つは、人々が誰もが担っていた「統業」を、万人の手に取り戻すことである。真っ当な生産活動として、誰もが担うことである。それ以外に、地獄のような世界を変える方法はないのだ。(69561

農業従事者や自営業など一生続ける(守る)家業がある人は、その家や集団での役割を全うしていける。しかし、サラリーマンが定年退職したら一切の生産基盤を失ってしまう。脱サラには、歳を食っているし成功の可能性も低いので、大半はアンケートのような生活が一般的だろう。しかし、意識を変えることができれば、むしろ農業や自営業ような守るべき生産基盤のシガラミがない分、自由な活動が可能である。

例えば、空き巣・詐欺対策、誘拐魔、引ったくり・・など、単に時間とエリアを分担し見回るだけで犯罪の抑止力になる。子育てに困っている若い母親には、子育て経験の豊富な老人たちが分担できる。介護の必要な老人も、施設に入ることなく在宅でも元気な老人が食事も含め専門のヘルパーよりも気の利いた世話が出来る。誰にでもでき、かつみんなから感謝される。

これまでは、すべて専門の組織(行政と法人と企業)が担ってきた。大半は、補助金投入を前提にした社会的なサービス業務である。専業であるがゆえに社会的サービスを独占して、その存在理由を既需要者と一体になって拡大している。

需要者になるしかないと思っていたサラリーマンの潜在思念にある「フリータイムの仕事」「ボランティア」・・・漠然としていた仕事と役割充足を、社会を事業化することに気付かせれば像を結び出してくる。同じ境遇(状況)のみんなが、社会(地域・地区)を対象することで、役にたって感謝される課題=事業は無限に広がってくる。

社会を対象化し、みんな不全を対象化すること、そこからみんな期待の課題に応望すること。そのためには、政策・法令・専業組織構造の犯罪性を認識する学習こと。認識仲間を募り「自分たちで社会を変える事業」を起こそう認識できれば、現在の社会不全の解決の糸口は見えてくる。それは共同体の再生であるし、みんな期待の事業=統業の当事者になることで元気になれる。




馬場康一郎

何故仕切られているのか

1950年代中学時代を送った土地は、兵庫県でありながら大阪府の保養所がありました。
そのため、周囲を山に囲まれ、田舎でありながら田んぼは殆ど周辺にはありませんが、各家庭にお風呂が無く、保養所のお客さんの使用後の大浴場を使わせて頂いていました。
夜、20~25軒くらいの家族が一斉にお風呂を使います。
赤ちゃんから年寄りまでそれは賑やかなこと、誰の赤ちゃんでも子供でもお構いなく抱っこしてお風呂にいれ洗って、若い者は年寄りの背中を流しながらお喋りに花が咲き、子供は誰の子でも構わず叱り注意もする、身内や他人などと何の隔たりもせずまさしく大家族でした。

困っているなら助けられ、余力あれば助け、小学生も中学生も赤ちゃんや幼児をお風呂に入れる一人前の期待を感じ、上手くできれば周囲から褒められ喜ばれ、大人からその場の規範を教えられ、みんなの会話から大人の世界を垣間見て、みんなで生きていく社会の仕組みを自然に覚えました。

その後、就職してその土地を去り、両親はその土地で今も生活していますが、保養所に来る人が土地の人をお風呂に入れるのはおかしいと府に申し入れがあったとのことで、お風呂は使えなくなり各家庭は慌ててお風呂を増築しました。

今では、保養所は老人専用の保養所に建て替えられ、子供の頃遊んでいた広場も大きな木の下のお地蔵様もフェンスで囲まれ入れない別世界になりました。

あの頃一緒にお風呂を使った大家族のような仲間の多くが別の地に去り、里帰りしても知らない同士で挨拶も無く素通りする、あの頃の面影は全くなくなりました。

>ロ.肉体破壊・精神破壊と市場の拡大停止    
 
実現論9_2_03   
   だが、肉体破壊よりももっと致命的なのは、精神破壊である。市場の拡大によって、闘争の場(職場)と生殖の場(家庭)が分断されてしまったが、これは実は、生物史上かつて無かった極めて異常な状態である。全ての生物集団は、闘争過程と生殖過程を包摂した全的な集団として存在しており、全ての生物はその中で進化してきた。もちろん人類も、原始時代からずっとそれを踏襲し、闘争と生殖を包摂した全的な集団の中で、今日の人類に進化してきたのである。原始時代だけでなく農業生産の時代もそうであって、例えば農家は、今日の家庭の様な単なる生殖と消費だけの場ではなく、それ自体が一個の生産体であり、従ってそこには、自然圧力をはじめ様々な闘争圧力が働いていた。だから子供たちは、働いている両親の背中を見ているだけで(学校など無くても)、健全に育っていったのである。だが、市場拡大によって職場と家庭が分断され、かつ家庭が絶対不可侵の聖域となった(例えば、よく「企業が悪い」「学校が悪い」と糾弾されるが、「家庭が悪い」と糾弾されることは殆どない)ことによって、家庭には何の圧力も働かなくなり、その結果、家庭は子供を教育する資質をほぼ全面的に喪ってしまった。サラリーマン家庭が孕む教育不能という問題の深刻さは、当分の間は、まだ農家育ちの祖父母や両親が居たお陰で、顕在化してこなかった。しかし、農村から都市への大移動がほぼ終わった'70年以降、その致命的な欠陥が徐々に露呈され始め、とりわけ老人と共に農家時代の諸規範が家庭から消え去った'90年以降、若者たちの間に心の欠陥児が急増し、子供の精神破壊が恐ろしいスピードで進行中である。< 

あの老人専用保養所のフェンスを取っ払って、みんなが交流できる場に何故できないのでしょう。
恐ろしい事件の続発、子供たちの精神破壊を直視すれば、核家庭・託児所・幼稚園・小学校・中学校・老人施設みんな塀に囲んで、隔離施設にすることがおかしいのだと感じるはずですが。






浦野てる代
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