2015年03月

退職金から支援金へ~江戸時代の定年「のれんわけ」制度の可能性~

>ドイツビスマルクの時代には、年金制度の実施とあわせて労働者の定年制度も同時に制定されていました。当時の社会主義運動弾圧を背景に考えると、労働者は働けるだけ働いたら後は死ぬまで静かにしていなさい、という金による懐柔であり、立場を変えれば金を餌に奴隷の身に甘んじることを労働者自身が受け容れてきたということです。(98928

世界的に見れば、定年制度の起源は19世紀ドイツビスマルク時代にあるようだが、日本ではそれに先駆け、17~18世紀の江戸時代に定年(退職金)制度の原型と考えられる制度があった。それは、商人の定年「のれんわけ」制度だ。

この定年「のれんわけ」制度は、もともとは奉公人の年季明け(奉公契約期間の終了)に、奉公人の独立手助けに「のれん」を現物支給したのが始まりで、やがて「のれん代」という独立援助資金に変わり、さらには長年の奉公への報奨や慰労のお金へと変わっていったようだ。

この制度が優れていた点は、概ね以下の3点にあると考えられる。
1.奉公人が奉公を終了しても職を失わない。
  (根無し草にならない)
2.のれんわけされた分家の評判は、直接主家への評判に繋がる。
  売り上げの一部は主家に上納される。
  (地域や時代によって差がある)
  のれんわけすることで、主家・分家がともに栄えていく。
3.優れた技術継承システム=供給者育成システムとなっている。
  奉公人は「独立」を目指して頑張る。
  つまり「のれんわけ」は活力源でもある。

また、この定年「のれんわけ」制度は、江戸幕府も支援していた。
現代風に言えば、政府・企業・個人が一丸となって支えあい、技術を継承し、活力を生み出していたと言える。
ビスマルクに端を発する”奴隷的”定年制度とは全く様相が違っている。(奴隷と供給者では、どちらが活力出るか、言うまでもない)

日本の定年制度は、この後明治に入ってから官主導で、”ビスマルク型”定年制度へと移行していく。明治20 年代初め(1880 年代後半)に官吏や官営工場労働者等に導入された後、徐々に民間企業に普及。現在では、従業員30 人以上の企業の9 割以上で定年制が採用されている。

ところが、江戸時代の定年「のれんわけ」制度とは違い、現代の定年制度は様々な歪・問題を生みだしている。

>つまり、65歳で引退したとしても、あと15年以上は、体も頭も働かせることができる。また、東京都産業労働局が50代にアンケートを行ったところ、定年後も働き続けたいという人が80%以上を占めたそうだ。・・・・今や、若者だけでなく全世代とも、趣味や遊びよりも、やりがいや社会参加(≒仕事)を求めている。それが主流ではないかと思う。しかし現状、高齢者の社会的役割がなかなか見つからないというのも事実。(99874

岩井さんの投稿にもあるように、ビスマルクに端を発する現代の定年制度は全く人々の活力に繋がっていない。むしろ、技術継承問題、労働力不足と言った産業問題、社会的役割喪失からの活力衰弱、そして(退職金による)経済的負担増、そして年金負担増=財政問題と社会問題を生み出すばかり。このような問題だらけの制度を引きずり続ける意味は全くない。

最近は、再雇用制度・雇用延長制度なども導入され始めているが、企業における賃金は年功序列である為、再雇用・雇用延長は企業にとって負担になる→年金の全面的減額又は賃金の大幅カットと金の損得勘定に始終しており、労働活力と言う視点に立った制度とはとても言えない。(賃金カット=評価ダウンの中で労働活力が上昇するだろうか?)所詮、既存の制度の枠の中で目先的な対策を講じているに過ぎない。

このような問題だらけの定年制度に変わり、江戸時代の定年「のれんわけ」制度を、導入してみるのはどうだろうか。
具体的には、定年年齢が来たら「退職金」を支払うのではなく、のれんわけの「独立支援金」を援助する。
定年した労働者は、その支援金で子会社を起こす。
もちろん一人ではなく、同期退職者と一緒に起業してもいいし、先輩退職者が既に起こした子会社に入る形をとってもいい。現状一人当たりに数千万の退職金を支払っているのだから、全く難しい話ではないだろう。(今や資本金1円でも企業できる)
子会社の業務内容としては、若手社員の研修、経営指南、技術指導など、"親”会社のサポートでもいいし、これまで習得した技術を生かして、親会社からの外注先となってもいい。また、全く違う業務、子育て支援や教育などの活力再生業務、更には認識形成業務を営むのもあり得るだろう。
いずれにしても、”親”会社が支援金を注入する。そして”子”は売り上げに応じて”親”に上納する。

このようにして、「定年」=「(供給者としての)独立」と言う構図ができれば、高齢者の社会的役割の喪失と活力衰弱の問題を克服していけるし、同時に技術継承・労働力不足の産業問題も解決する。
退職金と違い、支援金は上納と言う形でペイバックするので、経済的負担も小さくなるし、更には生産基盤を獲得できる為、年金負担も減額していくことが可能になる。

本源集団たる共同体が再生されれば、定年を巡る問題(根無し草・役割喪失)は複合的に解決されるが、過渡期的には、都市労働者の老後、つまり定年制度をどうしていくかと言う問題は極めて臨戦的で重大な問題である。「役割と活力の再生」をキーワードに、既存の制度に縛られることなく、あらゆる可能性を探っていく必要がある。
「供給者育成システム」とも言える、江戸時代の定年「のれんわけ」制度を検討してみることは非常に有効ではないだろうか。





西谷文宏

高齢化社会の本質問題

> 全人口を、年少人口(~14才)・生産年齢人口(15~64才)・老年人口(65才~)にわけ、生産年齢人口が老年人口を支える前提で数字を算出しているのだが、これは実態を表すものではない。(99790)

高齢化社会の問題を考える上で、最も違和感を覚えるのは、「60歳(~65歳)までは現役=生産に携わる労働者、それ以降は引退=高齢者・・・→したがって福祉や年金が必要」という固定観念だ。一般企業の定年退職と年金の支給開始がそこから始まるという制度的な問題から、いまだにそう言われているわけだが、考えてみれば、そうした年齢区分に根拠はない。しかも、実態にそぐわない。

> 厚生省の数値に拠れば、65歳の高齢者がその後自立して生活出来る期間は男が16.5年、女が18.3年。ケアを受ける期間が男が1.6年、女が2.7年となっている。(65887)

つまり、65歳で引退したとしても、あと15年以上は、体も頭も働かせることができる。
また、東京都産業労働局が50代にアンケートを行ったところ、定年後も働き続けたいという人が80%以上を占めたそうだ。

「定年後は悠々自適」という発想も今や旧い。こうした発想は、仕事=苦役(嫌なもの、逃れたいもの)という心情に基づいており、序列絶対・私権絶対の時代の産物である。(98928 定年・年金制度は奴隷の補償制度)
今や、若者だけでなく全世代とも、趣味や遊びよりも、やりがいや社会参加(≒仕事)を求めている。それが主流ではないかと思う。

しかし現状、高齢者の社会的役割がなかなか見つからないというのも事実。

そう考えると、壁になっているのは制度であり、その背後にある固定観念、「人権」「福祉」といった旧観念である。高齢化社会の本質問題は、高齢者が増え続けることにあるのではなく、旧観念が出口を塞いでいることにある。





岩井裕介

年金、必要悪から不必要への転換

>いよいよ、自我充足のために個人や自由という観念を楯に共同体を悉く解体し尽くした団塊世代が、年金や老人医療を受ける側に廻る時代を向かえる。<(99239、小圷さん)

私の周囲の団塊世代の「年金」の声は大方次の二つに分けられるようだ。
「受給年齢が引き上げられるだろうが、ま、なんとかなるだろう。」
「これまで払った分は税金と思わなくっちゃ」
いずれも、現在の年金制度がそのままうまくいくとは思ってないが、前者は年金は破綻するはずはないと思い、後者は年金をまったく信用(期待)していない層。
前者は払う原資はどうなるかまともに考えたこともなく、破綻している現実を捨象している。一方、後者は年金制度そのものを捨象している=年金制度がどのような制度なのか実はわかっていないのも後者の特徴。
総じて「仕方ない」でよし、としているところが団塊世代の特徴だろう。

私権時代は、共同体(みんな)が解体され、とことん個(自分)へと分断されていく時代であった。そして市場社会ではだれもが消費特権階級となり豊かさ=消費の自由を追求し快美欠乏を肥大させていった。
…働けなくなったら生活できない。だから生存権を確保するために年金制度等の社会保障制度を充実させる必要がある。特に働けなくなった老人はみなで助ける(相互扶助)必要がある。年金制度そのものはシステム的にいろいろ問題はあるかもしれないが、頑張ってきた人を支える、老人を助けるのは、われわれ日本人の心底に残る共同体質そのものである=年金制度は「必要悪」である、という声を聞く。

しかし、年金制度の「必要悪」の「必要性」とは、私権時代・市場時代の要請に応えることではないか。つまり、老人になっても私権存在、消費特権階級として存在させるためではないのか。「年金」とは「生産」をやめて「消費」に専念するための原資ではないのか。「年金制度」の本質は「死ぬまで消費させる制度」ということではないのか。
その証拠に「共同体」のどこを調べても『個人』を対象とした年金に該当する制度は見つからない。「原始共同体」の貯蓄はすべて「みんな」のために備えられる。年を取れば役割(老人の出番)が変わるだけの話だ。いつまでも生産過程=生活に関わる仕組み=みなの期待のこたえて充足できる仕組みをどう構築するかが共同体でいう保障制度だろう。

「年金制度」は私権制度という枠組みの中で老人=非生産者階級を消費過程にどう組み込むかという問題から発生した必要悪の社会システムであったと思うが、しかし、私権制度は今やがたがたで、だからこそ年金制度も必然的に崩壊している。従って、この制度が残存すればするほど新社会への転換が遅くなるということになる。

われわれが展開する共認運動は、まずは共認社会へ移行する上で「年金制度」は不要であり、むしろ活力を衰弱させる要因となっている事実を明らかにする。そして今必要な制度は、老人がともにみなの期待に応えられる役割(出番)をどのように用意するか、生産過程にどのように老人を組み込むかの議論や成功事例を展開することだろう。




吉国幹雄

自戒を込めて、「中高年世代こそ頭を使ってこなかった。」

>例えば、もっと上の世代ならもっと私権を獲得するためにはどうしたらいいのか?について、もっと自分の頭を使って必死になって考えたし、仲間との関係でも、納得できないことがあると、言い争いをしてでも、相手が何を考えているのかを必死で探ろうとした。
>だから、自分の頭で必死になってモノを考えたことがあるのか?という言葉は若者にこそ、有効な言葉なのではないかと思った。(98914)

 トラブルや手詰まり感の原因分析は、①状況の読み誤りや戦略・体制の総括課題に終始して仕舞いがちだが、②当てにした人材の能力構造にまで踏み込まないと閉塞の真の原因が見えて来ない。だからスッキリ感が伴わず、闘う組織活力が再生されない。 それは投稿でも明らかな社会の意識潮流が劇的に変化を早め、仕事に懸かる外圧の中身が一変しだしたからであろう。(79803『新概念を使いこなせて、はじめて供給者になれる』) 近年、人(=潜在思念観念機能)の比重が格段に重くなって来ている様に感じる。同類闘争の外圧(課題)と(人の)活力源や与えられた武器(認識)に繋がらなければ、総括がスッキリしない。 

 従って投稿に在るように、「自分の頭でモノを考えて生きてきたかどうか?」、生き様が問われている。自分の頭でモノを考えてこなかった人は、観念的整序能力や探索能力が闘争圧力の身の丈に合わないから周りに失望を与える。社会を捨象し、観念機能を軽視した生き様では構造化の能力が身に付かず、同類闘争の圧力に耐えられないからだ。私権や私益の獲得の為、自己正当化の屁理屈の為のみに使った頭では、この転換期の課題圧力には通用しないからだ。

 例えば団塊の世代、反抗だけなら頭が空っぽでも出来た。自前で考えたことなど全く無い世代の代表が団塊世代だ。旺盛な私権活力と鋭敏な感度で闘って、自信を持って現実を整序してきた私権派も、実は頭を使って来たとは云い難い。

 潜在思念では新しい潮流が感受できても、有効な認識を言葉にする観念能力がついていかねば、自信は揺らいで出口が見えず、答えも出せない。総括の必要性の出所が、観念機能を使ってしか解明できない「収束不全」にあるからだ。このままでは通用しないことに気付いた中高年層も、自戒を込めて真剣に転換したいと思い出している。構造認識の吸収が「活力」と「観念機能」を再生させ、次代への同化能力を磨いてくれるからだ。



阿部紘

好き勝手な生き方は共認機能を錆付かせる

>常に周りの対象にまっすぐ同化し、同化対象がなくなるととんでもない不安にかられる。そしてまた同化対象を見つけることで心は充足し、安定を取り戻す。


定年により会社を退職した場合について考えてみると、多くの人は、これからは第2の人生を楽しむんだ(謳歌するんだ)ということで、自分がやりたいことを、やりたいときだけ、ある時は一生懸命に、ある時は気の向くままに、誰にどうこう言われることなく、好き勝手に時間が使えることになると期待をする。しかし、実際それまで自分に与えられていた課題が無くなってしまうということは、つまり、同化対象がなくなってしまうことであり、共認機能を必要とする場が無くなってしまうということである。

周囲の人間は、さぞ有意義な人生なのであろうと羨ましがったりするものであるが、生きていく上で共認機能を必要とする人類にとってこういう生き方は危険であると見るべきではないのか。これでは第2の人生がこれまでと違って、好き勝手な生き方となってしまい、やりたい対象があるとはいうものの、自分でどうにでもコントロールできる。いつでも取捨選択可能な対象など、無いのも同然である。

人類は本能だけでは生きていくことができないがゆえに、周りの自然や同類を対象化し、それらに同化して、つまり共認機能を得て生きてきたのではなかったのか。
本能だけでは生きてゆくことができない人間が、退職後において共認を無視した生き方を選択するというのであれば、それは死ぬ時期を早めていくということを意味するのではないのか。

会社を退職した後の人生においても、年齢、能力に応じた課題を与えられることで、対象を得、それに同化し、充分に共認機能を駆使して、さらに磨きをかけていくことが本当に第2の人生を謳歌することになるのではないかと思う。





匿名希望
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