2015年03月

消費過程の助け合いだけを主張できる訳がない

>現在と違って、昔は助け合いは当然のことでした。しかし、そこではまず、自然圧力などの強い外圧が働いており、それに対して「皆で何とかしよう」という意識があって、老人や子供にもそれなりの役割があったのだと思います。課題共認も役割共認もできているからこそ、皆で助け合い互いに感謝の念もあったでしょう。(68077)

福祉制度と言うのは、基本的に分配制度であろうと思われます。税金や保険料を再分配する仕組みです。その意味では、徴収できる基盤もなしに分配だけが一人歩きできるというだけでも、おかしな制度であることを物語っています。

しかし、国に借金が800兆となるに至って、分配だけの権利を主張するのはおかしいのではないか、という意識が人々に芽生え始めているようにも思います。

考えてみれば、分配だけの助け合いということ自体が異常です。助け合いとは、なによりも課題や役割を互いに担う中でこそ生じるものです。本来、生産過程の助け合いをおざなりに、消費過程の助け合いだけを主張できる訳がありません。

福祉制度の行き詰まりは、生産過程における助け合いとは何か?その中における子供や老人の課題や役割とは何か?を改めて人々に問い返しているように思います。





石野潤

高齢者の役割の最初は自戒から始めなければならない

高齢者問題で最も有効性が高いのは高齢者に役割を作ることという答えになるのだが、新たな役割をひねり出すにはどうすればいいだろうかという発想になりがち。さらにはお決まりの地域コミュニティーや相互扶助の発想に入り込み、暇つぶしに何かをやるみたいな発想に陥ってしまう。

もっと根本的な高齢者の役割について発想の転換はないのだろうか?

ヒントを返信する阪本さんの投稿と実現論から探ってみたい。

>個人の自由を追求した結果待っていたのは、最終的には誰からも疎ましく思われ、誰からも期待されず、社会の足枷だとしか思われなくなる、そういう社会だったのだ。
この社会を変えるには、やるべきことが2つある。
一つは、共同体を復活させることである。
もう一つは、人々が誰もが担っていた「統業」を、万人の手に取り戻すことである。(69561)

>原始時代だけでなく農業生産の時代もそうであって、例えば農家は、今日の家庭の様な単なる生殖と消費だけの場ではなく、それ自体が一個の生産体であり、従ってそこには、自然圧力をはじめ様々な闘争圧力が働いていた。だから子供たちは、働いている両親の背中を見ているだけで(学校など無くても)、健全に育っていったのである。だが、市場拡大によって職場と家庭が分断され、かつ家庭が絶対不可侵の聖域となった。
(中略)
家庭には何の圧力も働かなくなり、その結果、家庭は子供を教育する資質をほぼ全面的に喪ってしまった。サラリーマン家庭が孕む教育不能という問題の深刻さは、当分の間は、まだ農家育ちの祖父母や両親が居たお陰で、顕在化してこなかった。しかし、農村から都市への大移動がほぼ終わった'70年以降、その致命的な欠陥が徐々に露呈され始め、とりわけ老人と共に農家時代の諸規範が家庭から消え去った'90年以降、若者たちの間に心の欠陥児が急増し、子供の精神破壊が恐ろしいスピードで進行中である。(実現論9_2_03

私権時代通して中年も含めて高齢者は集団の中で常に若者を育てるという役割だけはいつの時代も担ってきた。それは社会においていつの時代も秩序、規範を維持していくことが何より重要で、その点において高齢者の役割は失われる事がなかった。
翻って、現在あらゆるところで秩序が崩壊し、欠陥児が恐ろしい勢いで増えているのは、社会空間において最も重要な高齢者の役割が失われてしまった(若しくは果たせていない)事に帰結するのではないだろうか。

確かに市場社会や都市化、核家族化がもたらした外的要因は大きい。また、70年代貧困の消滅と共にそれまでの価値観が反転し高齢者になるほど、時代に合わない価値観に翻弄されているのもわからなくもない。崩壊し続ける共同体を前に何もできずに老いていく事の無念さも同感できる。
しかし、それらを差し引いてもこの30年間、今の中高年自らが己の自由と引き換えに規範群を自ら手放し破壊してきたのも事実なのである。また、都市を飛び出し、共同体を破壊した最初の世代(団塊の世代)がこれから高齢者の仲間入りをしようとしている。

これからの高齢者の役割を考えていく際にその部分を見落としてはならない。つまり、自ら破壊した社会に対する反省も悔恨もなく、ただ若者のように与えられる役割を待っているようでは話にならないのだ。
「今は尊敬できる高齢者がいない」若者がつぶやくこの言葉を素直にかみ締めなければいけない。

いつの時代も変わらないのではないか?規範を作り維持していくのは高齢者の役割、若者を暖かく育てていくのも高齢者の役割。
たとえ収束不全の現在であっても、そこの期待を見失ってはいけない。今それができる高齢者はほんの一握りかもしれないが、再びそこから始めてみてはどうだろうか?自戒の念を持って、未来への期待を残り少ない自らの生に賭けてみてはどうだろうか?

高齢者の役割はみんなの期待を受け取る事から始まる。
その延長に高齢者の仕事も共同体の再生も有るのだと思う。




田野健

役割を一緒に考える

親元収束する私達世代の親達が、年老い、動けなくなった時、どのような形で親の面倒を見るか?という事について議論した。

1.親元収束(特に母親大好き)しているのだから、親が年老いてからも、世話をする。
2.(お互いに)都合の良い表層的な親元収束なので、(親のお金で)老人ホームのお世話になる。

大きくは、この2つの意見に別れた。2については、大方みんなの意識の中にはまる物があった。親元収束は、双方にとって、とても都合の良い形で保たれている。親の期待=親の囲い込み。子の応合=それにより刷り込まれた、安心感、充足感に収束する事。ならば、『親の面倒見る』と言う事も、表層的な故、自分達の都合の良い方向に働き、本当に動けなくなった状態で、自分達の手を使い、下の世話までするのだろうか?と言う所へ至った。また親も、『子に面倒は掛けられない(掛けたくない)』という思いで、「最終的には老人ホーム」と言う選択をするのではないか?

まず、ここでの問題は、『親の期待』の履き違え。
本当に『親の期待に応える』と言うことは、どういうことか?

>問題は65才過ぎれば年金で生活という意識そのものにある。(96929

親たちも、私達と同じく、身体では役割を欲している。しかし、頭では、規範やしがらみによって「もう働きたくない」「休みたい」と思ってしまう。役割がなければ、活力も出ないはずなのに。。身体が欲している『役割』を一緒に探す、考える、掴む、事が『期待に応える事』ではないだろうか?自分達の都合の良く期待を履き違え、老人ホームに送る事ではなにも解決しない。
まずは、親元収束を脱する事が先決。次に本当の『親の期待』を掴み、それに応える事が必要だと思った。





西田香織

元航空隊78歳の戦後60年は生涯現役。新たな社会参加なるか?

最近になって、久しぶりに会う人が増えました。今日お会いした人は、約十年ぶりに来てくださった不動産屋さんで、T市に良い物件が出たので先生の教室向けにいかがでしょうか?と誘ってくれました。

彼は、約十年前に倒産した大手不動産会社の老兵で、会社が倒産しても別の会社ですぐに採用してもらえたという意味ではプロです。十年ぶりに偶然思い出してくださったのか、それとも時折思い出してくれていたのかは分かりませんが、彼自身は後者だと言ってくれました。

現在78歳。太平洋戦争では、航空隊所属だったそうで台湾で終戦を迎えたのだそうです。終戦間際の米軍による機銃掃射と亜熱帯気候でのマラリアが恐かったそうで、終戦後の中国国民政府による捕虜生活では食事は河川敷を開墾しての自給自足を経験し、一年半後に帰国したそうです。

いろんな苦労をされたわけですが、自分以上に大変だったシベリア抑留者の手記を読んでからは、自分の幸運に感謝し続ける毎日だそうです。20歳からの第二の人生では、三条市ということもあり、金物卸商(北海道担当)をやりながら出張のための電車の中で勉強し宅建の資格を取り、60歳になって金物卸引退と同時に大手不動産会社に就職、会社倒産→再就職を経て、今日に至るのですが、その間も75歳で大学の単位聴講生として学ぶなど、かなりアグレッシブな勉強家であると思いました。

塾のホワイトボードに書かれていた数学の授業の∑記号を「シグマ」と読み、旧制中学校時代を懐かしがっていられました。そんな彼の目が一瞬輝いたのですが、それは、

「ねえ、Nさん。この塾は変な塾でして、世直しする人が集まる塾なんですよ。」と私が言ったときでした。

世直しという言葉にそんなインパクトがあるの?と日常的に多用していた私はそのことにやや鈍感になっていたようで、勉強を続けてきた人にはかなり衝撃的、らしいのです。

「それで、そういう志の高い人を教えるのは難しいので、私自身はインターネットの会議室に参加して勉強しているんですよ。メンバーの投稿した論文を読み、自分も投稿します。そういうことを何百となく繰り返してだんだん分かるようになってきました。」

Nさんの目がさらに輝きだす。と、彼はこう言いました。

「そうすれば他に何もしなくても自然に頭が良くなりますね。」

「と、私もそう思います。」

もちろん、全く何もしないという意味ではなくて、たんなる読書や大学での講義、下手をすると現場の仕事をしているだけでは得られない、生きた知識=認識を自然に得られるという意味だと思います。

また、むしろNさんの言いたかったのは、そういう場がないからわざわざ読書をし、新聞を読み、大学に通ったのだということでした。

Nさんは、戦時中のこと、その後の第二の人生のこと、そこから自分なりに得た認識を久しぶりに他人(私)に伝えました。

「Nさんも投稿してみてください。」と言うと、彼からはこんなお返事が。

「ありがとうございます。」

私にとってかなり大きな意味を持つお礼の言葉でした。人はやはり認識を受け取ったり伝えたりして生きている、その場があればもっとイキイキと生きていけるのだな、そしてそのことに年齢や職業は関係ないと、深く勉強させられました。

長くなりましたが、卸商にしても、不動産業にしても、対象に深く同化して答えや情報を供給する仕事です。共認機能で学んで体で稼ぐ、体で学んで共認機能で稼ぐ、が両立しているような気がします。ただそれが、みんなのための共認になるためには、共認形成の場が必要であり、その必要の中に高齢者の新しい役割が見出せるのではないかと思いました。





佐藤英幸

オジさんの話が面白くないのはなんで?

最近ますますオジさん(概ね40代以上)の話が面白くなくて、接していて苦しくなることが多い。困ったことに、オジさんが構造認識を語っていたとしてもそうなのだ・・・

若手相手に認識を語るその姿は(今までとは形の変化した)説教とか愚痴にしか聞こえないことが多い。その時オジさんは結構力が入っていたり、悦にいってたりするので余計に壁ができてしまう。

また、オジさんは結構認識営業(認識を語ること)が好きだ。なにかとても充足している風でもあり、そこそここちらも楽しかったりはするのだが、心には響かない。楽しげだし活力はでてるので、さまたげる雰囲気にならないから、いつまでも変わらない。初めは良かったが、今は新たな壁を前にしてしまったような感覚に陥っている。

オジさんの語る構造認識は例え中身は正しくても、共認が図られないのだ。大抵、一方通行で、押しつけ的で、思いこみ的で、周り(の気持ちや心)が見えていない。勿論、中身には共認出来るのだが、みんなの活力に結びつかない。構造認識によって疲弊させられるのはなんとも堪らない。

オジさんの共認回路や実現回路は一体どうなっているのだろう?

>思考次元1 潜在思念の実践思考
>これは、原始人以来の(動物にも備わっている)本源的な思考様式で、主に、感応(本能⇒共認)回路をもって現実を対象化し、答え=可能性を模索する。
>生命体の認識機能には、食欲や性欲etcの欠乏を感じる内識機能と、それを充たす為の視聴覚をはじめとする外識機能がある。答えとは、課題の実現経路であり、実現経路とはこの内部意識と外部認識がイコールで結ばれた回路である。
>答えを発見すると同時に全主体(=感応回路)はそこ(=実現経路)に可能性収束するが、それはある開かれた(=答えを見出した)欠乏意識とある開かれた対象認識がイコールで結ばれて共に強化される過程=その実現経路が強化される過程=その様な主体(実現回路)が強化・形成される過程である。
>従って、欠乏意識(内的認識機能)と状況認識(外的認識機能)を結ぶ実現回路こそ主体の中核(先端主体)であり、この実現回路こそ思考の先端中枢である。(19059)

>注:人類の場合、当然、観念回路も使われているが、健全な実践思考では、主に状況認識を整序する為に観念が使われている。つまり、潜在思念(その先端の実現回路)によって整序された実践的な構造観念である。
>逆に感応観念は、(次の2で明らかにするが)欠乏意識・課題意識をも状況認識をも共に歪曲し、極めて不健全な思考回路を形成する。

オジさんの頭の中は、感応観念化しているのではないだろうか?構造認識を感応観念で捉えてはいまいか?

>現実に可能性が閉ざされ(or答えを発見できず)現実に対する強い否定回路が形成されている(従って、実現回路が貧弱である)場合、否定意識は捨揚回路(-捨象+収束の回路)に収束して、何らかの+幻想を生み出し、そこに先端収束する。しかし不鮮明な潜在幻想では意識を統合できないので+幻想は観念化されて感応観念(価値観念や規範観念)を作り出し、この感応観念の下に全意識を統合しようとする。
>その際に考えるのは、どの言葉・物語が感応回路に響く(充足する)か、そして人々に共認されるかであり、その限りで状況認識や実現回路も貧しいながら作動している。しかし、この思考回路の主軸を成しているのは、現実を捨象した否定回路・感応回路であり、現実を対象化するのではなく、ひたすら内部意識を模索して観念化する倒錯思考の回路である。

>その上、いったん否定回路⇒感応観念に収束して終うと、そこから脱け出せなくなる。従って、例え頭で感応観念を否定して構造認識に向かったとしても、否定意識とプラス幻想という思考の動力源が同じなので、偏り誤った(=現実からズレた)、従って実現の役に立たない構造認識しか生み出せない。

>概ねこれが、現代知識人の思考様式である。

オジさんは現実(対象)を捉えられていないのではないだろうか?無意識に内部意識を模索して、観念化していないか?観念化した頭で構造認識を語ってはいまいか?構造認識を語ることで、他の課題や対象を捨象してはいまいか?

>○現実を対象化する=思考する=追求する(探索し、可能性収束=統合する)
>☆近代風に、創造する、追求する、主張するという在り様そのものが、おかしいのでは?それ自体が近代パラダイムでは?
>☆大切なのは、現実を対象化すること。それが、思考する(=探索し、可能性収束して統合する)ことの全てである。(7244)

現実とはみんなの意識であり、現実(=みんな)を対象化することが思考するということであり、実現するということに他ならない。改めてみんなの意識を対象化することから始めてみてはどうだろうか。答えはみんなの中にある。



沼田竜一
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